プロフィール

はじめまして。「しあわせ境界線メソッド」カウンセラーの峯平紗弥(みねひらさや)です。

このページへご訪問くださりありがとうございます。

対人関係に疲れる方、なんとなく生きづらさを抱えた方、アダルトチルドレン、愛着障害、HSPの方などに向けてのカウンセリングを行なっています。

私自身も40年にわたり、生きづらさを抱えて生きてきました。

家族や周りの状況に合わせ対応していくうちに、自分を生きていないことに気づき、

視点を変えること、人との距離を知ることで

しあわせな境界線」を持ち、楽に生きられるようになりました。

私のように長い年月をかけずに、早くに生きづらさから脱出して自分の人生に喜びを感じられるお手伝いをしたいと思っています。

そんな私の人生の歩みをご紹介します。

不安いっぱいの幼少期から学童期の家庭環境

両親、4つ下の妹と4人家族でした。自営業の父は破天荒で、外ヅラはいいが、気弱なお人好しでそのストレスからか飲酒をしては、家庭内で母に当たる日々。

「誰が養ってるんだ!」や「女は男の言うこと聞いてたらいいんや!」などのモラハラ、パワハラな人。

家業を手伝う母と「お姉ちゃん〜」と言って情緒不安定で泣きついてくる妹。

物心ついた時から家庭生活は安定せず、不安でいっぱいの毎日でした。

私が盾になって母を助けなきゃと自分も本当は泣きたかったけれど、父に対抗し母を庇う日々でした。

母はわたしたちを置いて実家に帰ったことが一人っ子の頃から何回もありました。

小学生時代は、学校から帰ったら、誰もいなくて西日が差し込む部屋で「またか」と諦めの気持ちで過ごした光景は今でも忘れられません。

母の厳しい躾で緊張と憂鬱に満ちた子供時代

父はほとんど家にいなかったし、帰った時は母との喧嘩になるので、いつ地獄が始まるのかと
いつも緊張とともに過ごしていたのです。

母は厳しい人で、行儀や食べこぼしなど、ヒステリックにいつも怒られました。

「早くしなさい」「なんでできないの?」「ちゃんとしなさい」
母自身ができてないことを注意されるのが理不尽で、一貫性もなかった。

「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と言われるのも日常茶飯事。

それに対してやるせない気持ちを抱え随分振り回された子供だったと思います。

こんな家いやだ、なんて家に生まれたのか?
両親が仲良く暮らせるように誰か助けてくれないかな?

しかし、相談できる人はいませんでした。

常に周りの様子を伺い、なんとか両親がうまく行かないか、と先回りして振る舞う子どもでした。

毎朝起きるのが憂鬱でした。

5年生の時の担任から言われた否定的な言葉がトラウマに

家庭は安らぎを得られる場所でなく、敏感で自己肯定感を持てない育ち方をしたのです。

それゆえか学校は家と違って緊張感が解ける場所で、男子とドッジボールをしたり、比較的活発な面のある子供でした。

しかし、ある出来事で、息ができる場だった学校生活が一変します。

5年生の時の男性の担任に「女の子らしくない、目立たないように」と言われたのがきっかけで、

ああ、女はおとなしくしてなきゃだめなんだ、認められないんだという観念が無意識にでき
そこから素の自分で自分らしく振る舞うことへの恐怖感のようなものが生まれ、

人前でどう見られるか、こんな私ではダメじゃないか?

こんなこと表現したらダメだしされるかもとの思い込みで、どう振舞っていいのかわからなくなっていきます。

ただただその場に合わせてニコニコしていることが自分の身を守る方法であり、女の子としてはそれが良しとされてるんだ、と歪んだ認知にはまっていきました。

中学3年の引っ越しで感じた喪失感と惨めさで自己を恥じる気持ちに

中学3年の時、父が人に騙されて多額の借金を背負い、家を手放すことになりました。

狭いところへの引っ越しで荷物はほぼ処分せねばならず、子供ながらに惨めな悲しい気持ちになりました。

思春期に入った私は、そこからずっと、家庭環境や親のことを友達に言うのも恥ずかしくて、自信の持てない、人に本音を言えない人に成長していきます。

家族のことは誰にも言えない、恥ずかしい。そんな家族の一員の私も恥ずかしい存在なんだ
いう思い込みができていきました。

男性役割と女性役割の間で揺れる会社員時代

私の子供時代からの密かなミッションは、父から母を助け出すこと。

社会人になってからも一人で身を立てていくぞ!とばかりに肩肘を張って、ひたすら認められようと頑張ります。

男女変わりなく仕事ができるはずの職場だったのですが、実際は両方の役割を求められました。

そのため、男性性と女性性のはざまで戸惑うことも多々。
期待に応えなきゃと多少の無理をしてでも頑張ってしまう。

どこまでが無理なのか、もはやわからないまま、がむしゃらに働きました。

「自分さえ頑張れば」で25歳に自律神経失調症に

言いたいことをどのタイミングで言ったらいいのか、どのように表現したらいいのかわからない。

自分の気持ちを表さないがゆえに、外での人間関係ではさしたる軋轢も産まずに過ごしていましたが、それは無意識にとてもストレスの溜まることでした。

いい人の仮面。できる人の仮面。

徐々に疲弊し、体調不良になり、ついには会社を辞めることに。

自律神経失調症でした。

誰もが我慢していてこのくらいのストレスがあるのだろう、と考えて我慢していることに気づかない。これくらいの我慢は当たり前だと。

自分さえ我慢すれば、この場は収まる自然と身についた思考は自分を蝕んでいったのです。

結婚はしたもののデリカシーのない姑に苦しむ

結婚に全く憧れを描けずにいたのですが、なぜか、子どもだけは産み育てたいという思いはあったのと、たまたまご縁があって結婚に至ります。

父とは正反対の真面目で優しい、物静かな夫。自営業の人はやめなさいと母から刷り込まれて育ったので、安定した会社員であることも安心材料でした。

しかしまた結婚後に新たな苦しみの連鎖が始まります。

姑は、ずけずけと歯に衣着せぬ物言いをする人で、何かと干渉してくる人でした。

さまざまな嫌味やいじめとも取れる発言がきっかけで円形脱毛症になったり、胃痛もしょっちゅう。

どうしたら気にいられる嫁になれるのか、いろいろこちらの対応を変えてみるのですが、当然姑は変わることはありませんでした。

もっとも許せなかったのは、私の親に対する横柄な態度。情けない親だと思ってはいたけれど、家族となった他人である姑にそんな態度をされることが許せなかった。

流産後「不妊なら治療費は出すから病院に行け」と言った姑と「母は悪気はない」と庇う夫の反応に離婚も考える

そんな時、私は妊娠4ヶ月で第一子を流産します。
その後ほどなく、悲嘆に暮れていた私に早く次の子供をとか、不妊症なら病院代を出すから行け、などどとんでもない形で姑は私の心を傷つけてきたのです。

夫にそのことを話しても、「母さんは悪気がないから気にするな」と私の気持ちに寄り添ってくれることはありませんでした。

せめて夫には私の味方でいて、共感して欲しかった。デリカシーのなさに心底呆れたと同時に、子を失った悲しみの上にまたとてつもなく悲しく寂しくなりました。離婚も考えました。

でも子供は欲しかったので踏みとどまります。

不妊治療から高齢妊娠出産での試練の上に、産後も姑の嫌味発言に苦しむ

追い詰められていた私は、高齢ということもあり、不安にもなり、悔しいから姑に内緒で不妊治療に通うようになります。

幸い、紆余曲折ののちに子供を授かりましたが、妊娠中にまたもや、試練が訪れます。

妊娠中に実母がうつ病になり大きなお腹を抱えて病院への付き添いや母の入院で一人暮らしになった父の世話などが始まり、切迫早産の危機。

動いたら流産するかもしれないので、点滴に繋がれてベッド上から動けない入院生活10週間の後、無事出産。

産後は実母に頼れず、不本意ながら義母にお世話になり、その負い目もあってか、デリカシーのない姑への反発や怒りを抱え、抑え込んだまま、子育てをすることになります。

会うたびのイジメとも取れる嫌味発言は、姑の変わらない性格でした。

30代後半幼子を連れて実家の世話をし続ける日々

ある時、父は旅先で飲酒して倒れてその近くの病院に搬送され入院し、幼な子を抱えて遠い他府県の病院まで駆けつけます。

一命を取り留めたものの、転院などで子供のことを構ってやれずに必死で実家の親のことに対応せざるを得なくなり、まだ介護という年齢でもない親に対する介護に近いことが日常として始まったのです。

子育てと介護のダブルに振り回され、自分の時間がどれだけ欲しかったことか。

自分の家はほったらかしてでも、実家の世話に追われる日々が続きました。

父のワガママに翻弄されながらも無我夢中でこなしていきました。

感情を爆発させる妹との確執

4つ下の妹は私よりも親の近くに住んでいて、なおかつ親離れできていないので、べったりと親にやりすぎるほど寄り添うのです。

しかし実は親に対する怒りは私と同じように持っているので、「私ばっかりが親の世話をしている」という被害者的な見方をして、姉である私を常に責めてきました。

彼女のストレス発散の吐口に知らず知らずになっていたのです。

彼女自身離婚をして、子供がおらず、そのこともやっかみであり、子供がいるから親の世話に行けないというのは耐えられなかったのでしょう。

ある時妹から電話がかかってきて、「子供の習い事に連れていかないと行けないから後でかけ直すね」と言っただけで、「そんなことより私の話を聞くのが優先やろ?」と怒りを爆発させた時には驚きました。なぜなら内容は全く緊急性のないことで、単に彼女が今話したいだけ、だったからです。

その後再婚し、子供を持ったら私に言ってたことはどこ吹く風で子供を理由に行けないのを理解しない姉は最低だ!と言った時はほとほと呆れました。

私が対抗しても、彼女の強烈な爆発に押されて疲れ果てるだけ。

私は妹みたいになりたくない、仕方がないと諦めの心境と、でも許せないという怒りを蓄積させていきました。

誰か助けて!でも誰にも頼れない

母はうつ病で頼れず、父の世話は私たち姉妹のものでした。もちろん、母の世話も。

父が亡くなるまで振り回され、姉妹の関係は泥沼でした。

父の弟(つまり叔父)に、父や妹との関係など相談するようになり、間に入ってくれようとしたのですが、叔父もその二人にはお手上げでした。

すぐに怒りを爆発させ、コミュニケーションが取れなくなる妹。

こんな年齢になってもまだ実の家庭の呪縛に縛られて生きていることが呪われた運命のように感じて辛さしかなく、情けなく、悲しかった。

どうこの状況を改善できるのかもわからないまま、ひたすら追われるように生きていました。

40代突然の余命宣告へ戸惑い、幼な子を抱え命と向き合う日常

自分以外の人の世話に追われていたり、子共の預け先もなく放置してきた健康診断に、ある時数年ぶりで行ったのですが、そこで思いもよらず、大病院での再検が必要ということになりました。

大病院に行くと、聞いたことのない病名が告げられ、余命宣告まで受けました。

ショックのあまり、一気に7キロも体重が落ちるほど苦しい日々が始まったのです。

まず心配になったのは幼い子どもたち。

夫の親も私の親も、子どもの面倒をみるには年老いていて、私の親はこちらが助けに行く立場でしたし、私に万一のことがあれば、父子家庭でどうやって生きていくのだろうと。

勿論世の中にはたくさんの父子家庭の方がいらっしゃるのですが、下の子はまだ3歳でしたし、不安しかなかった。

不思議な病気で、数年間は治療無しで経過観察。ある数値が超えたら治療開始。

いつ始まるかヒヤヒヤしながらも数年は普通に生活が出来ました。

針のむしろにいる気分でした。

壮絶な治療の苦しみに生きるためにひたすら耐える日々

そしてついに数年後、恐れていた治療が始まります。

免疫が落ちるので、治療中は外気にも触れられません。

無菌室というビニールに覆われた部屋で入院生活を送り、食べ物も普通のものは食べられず、全て直前にレンチンし、看護師さんでさえ触れられないので容器ごとラップをかけて、病室の前に置いていくのです。

起きているのもしんどくて、まるで臨死体験のような日々でした。

退院後も薬の副作用で手が痺れたり、強烈な倦怠感が常にあったり、頭の中がクリアでなく目がかすみ、いわゆるブレインフォグと言われる状態が何年も続きました。

他にもまだまだある副作用の苦しみは書き切れませんが、ともかくも様々な段階を経て数年間
厳しい治療は続きました。

西洋医学だけでなく、使えるものは全て使って生き延びる!

副作用の辛さを緩和するためと基礎体力維持のために、元々はヨガ講師でしたが、改めて食生活や、代替医療や、心の持ち方など様々なことを実体験を持って取り入れていくことになります。

入院中もできる限り身体を動かしていましたが、身体の側面だけでなく、心の側面が病気に影響していることにも気づいていました。

病は気からというのをつくづく感じていたのです。

ヨガ講師なのに病気になったことで自分責めをしてしまう苦しさから逃れられず、また、体のボロボロはもちろん、精神面も社会からの目を気にしてしまう性格。

人生の苦しい時、疑問を持った時に学びを続けていたのは心理学でした。とはいえ、頭で理解したとしても、実際にカウンセリングを受ける体験はそんなになかったのです。

「私、わかってるし」の落とし穴。でも、わかるとできるは違うことを気づいたのは、もう少し後のことでした。

カウンセリングとヒーリングで苦しみベースからしあわせベースへ

ある時に受けたカウンセリングとヒーリングで、私がそれまで持っていた価値観が「苦しみベース」であることに気づきます。

確かに辛い体験をしてきたと思いますし、その時々で精一杯生きてきたのですが、本当はこの世界は自分の見方でどんなふうにも見えるのだということに気づくようになります。

だったらしあわせベースで生きたい!

しあわせな世界は自分で選べる

自分が当たり前と思っていた価値観が実は他の人とは大きく違ったり、なぜそんな価値観を持つようになったのかなどを紐解き、視点を変えて物事や人を見られるようになっていきます。

どこか自分の中に影を持って生きてきていたのが、そうじゃない世界で生きることを選べるのだということに気づき、楽になったのです!

それと共に、薬は死ぬまで手放せないと言われていたのに、ある日突然休薬していいよと主治医から言われるまでになりました。

人との境界線に気づくことで性格や人生も好転

そこで気づいたのは、私は境界線がうまく築けていなかったこと。

常に他者や状況に振り回されて、自分という存在は二の次

人との距離感もわからない。

そうせざるを得ない環境があったとはいえ、その状態では自分を大切にしていることにはなりません。

身体や心が悲鳴を上げるのも必然だったと思います。元々生まれ持った資質や性格もありますが、それでも、私という人間がそこに気づく必要があって起こった出来事の数々なのだと今は心からそう思います。

敏感で、繊細。実は赤ちゃんの時に過敏な傾向が現れていたそうです。

でも繊細さを人に悟られたくない、私は強い人でないとダメなんだ、弱みを見せてはいけない、
など、いかにもしんどそうな想いを潜在意識に持って生きてきたのです。

自分を一番大切に出来てこそ、周りも大切にできる。

適切な距離感や境界線を持ち、自分も周りも幸せになる。楽になりました。

カウンセリングで伴走してもらったことで生きる喜びを感じるようになる

敏感な故に先回りして自己犠牲をしてしまう自分から抜け出す、まるで紐に繋がれた犬のような生き方から解放され、自分を生きること。

真の喜びを感じられなかった生き方から、生きている喜びを感じるようになる。

やっとカウンセリングで本当の意味がわかるようになったのです。

知識だけで到達できなかった世界に、カウンセリングで伴走してもらえたことで気づけて楽に生きられるようになったのです。

心のメンテナンスがいかに大切なのか。

一人で悩み苦しむ日々をもっと短くできただろうなと思います。

人に振り回されることなく心地よい人間関係の中で生きませんか

人生の時間は有限です。あなたもお試しカウンセリングで生きづらさの脱出を体感してみませんか?

私のように生きづらさの中で理由や対策もわからず、もがき苦しみ半ば運命だとあきらめて生きる残念な時間を減らし、笑顔で穏やかに生きやすくなる方法があるなら、せっかくの人生、そちらを選択してみませんか?

苦しみから脱出するために心の仕組み、心理学などを本格的に学び、提供できるようになりました。

私が苦しんだ道があったからこそ、そこから抜け出た経験があるからこそ、同じような生きづらさを抱えた方には一刻も早くそこから抜け出て、新しい自分らしい生き方へとシフトしていただきたいし、それが使命だと思っています。

効果抜群の自分を大切にする簡単に取り組める下記のような日常のワークに一緒に取り組みます。

☆安心の土台が築けるワーク
☆不安を癒せるワーク
☆怒りを溜め込まなくなるセラピー
☆人との境界線がわかるようになるワーク
☆感情との向き合い方に気づくワーク
☆心と体が調和する呼吸法の実践

あなたも人に振り回されることなく、心地よい人間関係の中で生きられるようにしていきませんか?

☆アダルトチルドレン
☆愛着障害
☆HSP
☆不登校
☆夫婦関係の悩み
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☆毒親
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どんなお悩みも、まずはお試しカウンセリングで私との相性などを感じていただきながら
お話しくださいね。

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